【上海2005年⇒2015年】
~身近に10年で変わったこと~
2005~2006年に上海に滞在し、2014年に上海に戻ってきた。
身近に感じた変化を短くまとめた。
① 地下鉄が増えた
(数本、距離も短い⇒10以上の地下鉄路線、1路線の距離も長い)
2005年当時は地下鉄が数本しかなく、しかもその数本も途中までしかなかったため交通手段として地下鉄が頭にはなかった。たまにしか乗らなかった。地下鉄2号線も西は「中山公園」駅までしかなく、今のように虹橋空港まで全然つながる気配もなかった。10号線に関しても話だけでいつになったら本当に地下鉄がくるのかわからない状態だった。今では地下鉄10号線の「水城路」駅が最寄りの駅で本当に便利になった。
東京では考えられないけど上海では地下鉄の駅がにょきにょき増えます(※ビルもいまだに、にょきにょき生えてます)。
② 駐在員の通勤手段が増えた
(タクシー、運転手付き車⇒その他、地下鉄、市内バス、自転車、歩き)
2005年の頃は駐在員の通勤手段は「タクシー」、または「会社が準備した運転手付きの車」だった。公共手段を利用している駐在員は、ほぼいなかった。地下鉄は本数しかなく、家から会社までの移動エリアになかった。例え、あったとしても多くの駐在員が「過剰に安全を意識しすぎる」など現地に適応できておらず、ローカル的な交通手段は抵抗があったはずです。
市内バスを利用することは、発想そのものが存在しなかった。「タクシー」や「会社が準備した運転手付きの車」が当たり前と考える状況で、バス停に行ってローカルバスに乗ることは想像すらできませんでした。2015年の今では毎日、多くの日本人駐在員が地下鉄や市内バスで通勤しています。自転車の人もいますし、住むマンションの選択肢が増え距離的に歩ける位置に会社がある人は歩いて通勤もしています。
もちろん、タクシーや会社が準備した運転手つきの車で通勤する人も今でもたくさんいます。特に、工場エリア等の住むエリアから離れた場所に通勤が必要な場合は会社が準備した車で通勤するのが一般的です。毎日、車がピックアップして同僚と数人で会社へ向かいます。
ちなみに私もチャリ通だったり、タクシーだった状況によって使い分けていますが2005年も2015年も駐在員が使わない通勤手段としては自分で車の運転、バイタク(バイクタクシー)等があります。
③ 駐在員の年齢層が広がった
(40代50代⇒20代30代40代50代60代)
2005年は40代、50代の男性が駐在員の大半を占めていました。30代の人も少しいましたが20代の人は数%でした。当時20代後半だった私にとっては殆どが年上の人でした。2015年現在では20代から60代まで多くの年齢の人が上海で駐在員として仕事をしています。
また、2005年ではゼロに等しいくらい少なかった女性の駐在員や出張者の方もかなり増えました。かなり増えたと言っても全体の数パーセントに過ぎませんが会っても特に珍しいとは感じません。
他にも入社して数年の戦力にならない社員を数ヶ月から半年くらい研修目的で上海に来させる企業も増えてきました。すぐには戦力にならなくても、早いうちから海外を経験させて長期的なスパンで育てるためです。
④ 日系企業にとっての中国の位置づけ(工場⇒市場)
2005年は日系企業が中国に進出し始めて約10年経っていました。そのほとんどが「中国=工場」の位置づけでした。2015年現在では「工場」「工場と市場」「市場」と位置づけが増え、感覚的に工場の割合は已然50%を超えていますが、100%近く工場の位置づけだった2015年と比べると割合的に市場としてとらえている企業が急激に増えました。
ただ、多くの企業で中国市場を開拓するのに苦戦が続いています。全然中国語を話せず、かつ、商習慣が異なる中国市場を本人の意思とは別に会社の判断で送り込まれた日本人が開拓するには限界があります。現地化を進める企業が増え日本人駐在員を減らし現地スタッフを育てる傾向にあります(※減らす理由は、中国以外の国に比重を移す等いくつか理由があります)。
しかし、現地スタッフを育てること自体も簡単ではなく苦戦が続いています。
⑤ 日本料理屋が増えた
(あれば日本人が行く⇒美味くないとつぶれる、日本人以外の中国人顧客も)
2005年当時は、身近な場所にある日本料理店は10店程度で主に日本人が利用していました。2015年現在では50店~100店と数の把握にも困るくらい上海で日本料理店が増えました。今では競争も激しくなり、味やサービスが一定レベルを超えなければすぐにつぶれてしまいます。また、「日本料理」では生き残りにくく「うなぎ」「そば」等の専門店も増えています。
客層も2005年では日本人顧客の割合が80%~90%超だったのに対して、2015年現在では場所によって大きく異なりますが平均50%くらいで残りが中国人顧客となっています。出店場所に関しても以前とは異なり、日本人が多く住むエリアだけでなく日本人が殆どいないエリアにも日本料理店が出店され、日本料理そのものが多くの中国人に受け入れられています。
⑥ 駐在員の中国語レベルが少し上がった
(殆ど話せない⇒少し話せる)
2005年当時は上海に住んでいる駐在員の多くは中国語を勉強する気がありませんでした。もちろん、極わずかですがきちんと勉強している人もいました。2015年現在でも「日常会話ができる」と言えるレベルの人は少ないです。しかし、10年前と比べれば確実に増えました。
今で言う新HSK5級レベル(旧HSK6級以上)の駐在員は現在でも少数派ですが2005年は皆無に等しいくらいいませんでした(※毎日多くの日本人駐在員と会っている中で数人はいました)。
2015年現在では駐在員の平均年齢が下がったことと、また、市場を開拓するためにある程度の中国語レベルが必要となったため企業側が駐在員として上海に来てから数か月の語学研修期間を与えることもあります(来る時はみんな全く話せません)。
⑦ 車を運転する日本人が増えた(自分だけ⇒4人会った)
2005年当時、上海で車を運転している日本人は自分以外にいませんでした。正確には会ったことがありませんでした。聞いたことはありました。
2015年現在では実際に会ったことがある車を運転する日本人が私の他に3人います。免許センターにも日本人の人が来ていました。そう考えると2005年と比べ10倍以上に増えているはずです。
ただ、日系企業の駐在員は会社から車の運転を禁止されているため、私が知っている上海で車を運転する日本人は全員駐在員“以外”です。
⑧ 物価が上がった
10元では食べられるものが殆どなくなった。ローカルのラーメンとか一番安いチャーハンくらい。
私自身、2005年から2015年までの10年間で「営業⇒営業、集客、商品開発、新規事業立上げ、自分でもちょっと」「中国語全然話せないレベル⇒中国語少しは話せるレベル」となりました。今後の10年で自分自身の成長、中国の成長が楽しみです。2025年にこの続きをまた書きます。
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